陶芸家・熊本栄司の陶芸春秋

陶芸家・熊本栄司の日々の活動や思い、陶芸家としての喜怒哀楽を綴ります

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自分史(これから編)

 
さてさて・・・長くなってしまった「自分史」を読んでいただき
ありがとうございました。

とは言っても46年の人生を数回のブログで言い切る事なんて
できるわけもなく。

当然ながら喜怒哀楽を含んだもっともっと色々な出来事がありました。

本当は・・・

「クソっ!なぜ出ないんだ?パチンコ編」 とか
「スキーで転んでヨロレイホー編」 とか
「作品爆発で俺の心も爆発だ編」 とか
「今夜は酔っ払ったぜ!ヒレハレホレハレ編」 とか
「何故教室をやめていったの?シェーン!カムバック編」 とか

色々と書きたかったのですが・・・あはは

ま、誰でも自分の歴史を書けば立派な「自分史」の出来上がりですがね。

そして、ここ数年の出来事は1000回のブログに詳しく書いてあります。
アーカイブがありますので見たい方はどうぞ!
・・・ってそんな人はいないと思うけど。

教室を始めた頃は「教える事」自体に私自身が慣れていなかったし
時間体制、料金体制など手探りの状態で、中々落ち着いて作品作り
というのは難しかったけど、さすがに今はだいぶ教室の先生業も板についてきました?!

そういう事でまた再び作品作りにもっと力を入れれるようにしていきたいと
思っています。

それで個展もまたこれまで以上にやっていきたいと思っているんだけど・・・

しかし、私が初めて個展活動をやり始めた頃に比べて美術や美術工芸を
取り巻く環境は悪化していると断言できます。

いや・・・美術工芸だけじゃなく、安価な手作り品、そしてもっと安価な機械生産品まで
あまり売れない状況になっています。

私がお世話になった百貨店・・・

名古屋・星が丘三越の画廊は閉鎖。
奈良そごうは店自体が消滅。
四日市・松坂屋も店自体が消滅。
個人ギャラリーも3件ほど閉鎖。

閉鎖はしなくても美術売り場の規模を縮小する所も多数。

四日市・万古焼産地においての窯業も、窯元の数が激減、
それに比例して卸問屋の数も激減。
よって後継者も増えない。

工業・商業の組合とも、組合員の減少によりかなりキツイ状態に。

そこへもってきてアメリカを発端とする金融・経済問題。
非正規社員の大量リストラ等で一層の不景気に拍車をかけています。

・・・と言って心配していても仕方ありません。(心配だけど)

実は私は極度の「小心者」です。
ちょっとした事で右往左往してます。

ブログではあまり書きませんが私はかなりの「心配性」で
プラスを小さく、マイナスを大きく捉えるクセはいまだに治りません。

でも、そこはがんばらねば!
・・・っとブログの上だけでもカラ元気を出しています。

来年は・・・

2月に三重県菰野にあるパラミタミュージアムにおいて3人展。
5月は万古まつり。
5月下旬から東京・吉祥寺東急百貨店にて個展。
9月前半に名古屋・丸栄百貨店ギャラリーエスパスにて個展
9月後半に京都・大丸にて個展。

・・・を予定しています。

さて・・・これからどうなっていくのでしょうか?

正直、まったくわかりません。
また、新たな「自分史」を作っていく事となります。

小心者の私は波乱万丈ではなく、静かな海での航海になって
欲しいと思ってはいますが・・・さてさてさて???

長い間のご精読・・・ありがとうございました。

明日からは平常ブログに戻りま~す。あ~・・・疲れた!(笑)

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自分史(塞翁が馬編)

 
教室を始めるにあたり・・・

作家仲間からは教室を運営するという事は熊本は陶芸作家だけでは
食べていけなかった・・・という暗黙の了解が漂っていたし、
直接、私に「落ちぶれた」とご親切に助言?をしてくれる優しい?仲間もいた。

別に他人様から言われなくても、数々の公募展活動や個展活動を
してきた自分が・・・いや・・・やるだけの活動をしてきたからこそ、
作家だけで食べていってない事に対して、はがゆさと悔しさ、
なんとも情けない気分でいる事は自分自身が一番よく知っていた。

今までの努力は何だったんだろう?
何のために公募展に出品し続け、
何のために多数の個展を開いてきたのだろう?

安易に売れ筋を狙わず、個性的である事に重点を置き、あえて砂利道を
選んで歩いてきたつもりだった。

ま、思うことは色々あれど、とにかく苦肉の策で教室はスタートした。

(個展やグループ展、企画展等は回数を減らしたけれども
継続的にやっていた。)

しかし、実際に教室をスタートしてみると、今まで一人で色々と深く考え込み、
とにかく闇雲に突っ走っていた頃とは違うプラスの局面が見えてきた。

人生万事塞翁が馬なのか???

収入が劇的に伸びたという事では決してないけど、教室の場合
現金収入なので、何ヶ月も先の収入を心配する事はなくなった。
(いや・・・今でもと~~~っても不安なのだが・・・)

今まで工房で一人、黙々と作品作りだけをしてきたけど
教室には色々な年齢、職業の人が来てくれ、知人の数は倍増した。
(ギャルは特に大歓迎!)

それはそれで教室も楽しい。

他人との関わりが希薄な人間はやはりさみしいものだ。

多くの人と交流を深める機会も増えた。

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また生徒さんの作品を見て、逆にヒントをもらう事もあったし、
色々な考え方にも接する事ができた。

生徒さんが「お客さん」になってくれる事もまた非常にありがたい事だった。

生徒さんにスラスラと即興で陶芸を指導できるのは、今まで数多くの
公募展と個展でやってきた事で全然、無駄ではなかったのだ。

そして、少しお金ができるとトイレも下水道を通し水洗トイレにした。
これでトイレ問題は解決ハリマオだ。

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そしてまた、ギャラリーも作った。

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こうやって個展活動中心の生活から教室と平行しながらの生活のおかげで
色々な地盤固めができ、あたらしい方面で人生を見る事ができるようになった。

しかしな~・・・自営業というのはこういう設備投資というのに
お金がかかるものできりがない。

電気窯も新しく買ったし。

トイレやギャラリーにかけたお金があれば海外旅行など何度も行けた。
旅行らしき旅行にも行かずに、とにかく設備充実に金をつぎこんだ。

さて・・・明日で自分史はとりあえず最終回です。
(こんなに長くなるとは思わなかった)


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自分史(教室編)

 
個展や展覧会だけではあまりの不安定な収入。

女房・子供、家のローンを抱えている身にはつらい。

本当に一生懸命やってきた。

しかし、一生懸命やったからうまくいく・・・という教科書に出てくるような風には
いかないのが、これまた人生。

こんな事を言ったら怒られるかも知れないけど、一生懸命やらなくても
うまくいく人はうまくいく。

ドサ回りをして苦労しても中々に芽が出ない、売れない歌手や芸人の
気持ちがわかるようになってきた。

愚痴も出てくる。 

心も体も疲れ、なおかつ収入が不安定だと、人間考え方がマイナスのベクトルに動く。

色々と悩み、考えた末に一定の金額がちゃんと入ってくる
仕事を入れるべきだろう。

しかし、私には陶芸以外何も芸はない。

・・・と言う事で陶芸教室をやろうという事になった。

とりあえずの目標・・・米としょうゆ代。

つまり、教室を始めるという事は作家だけでは食えなかったと言われても仕方ない。

いや・・・食べてはいた。

しかし、いつ終わりが来てもおかしくない状態だった。

売れないのではない。

必要以上に手間と時間をかけた作品と売価、それにともなう収入の
バランスがどうしても取れなかった。

収入が無いからと言って、仙人みたいに霞を食べるわけにもいかない。

父が言っていた「作家だけでは食えない」という言葉は、あながち
ウソではなかったわけだが、作家業だけで食べている人も世の中には
いるわけで・・・・

そういう意味では私は「敗北者」であります。

陶芸家の場合、何代も続いた窯元だったり、お父さん、おじいちゃんが有名な
作家だと、かなり待遇も違っていただろう・・・などと思うようにもなる・・・

・・・でも・・・ちゃんと一代でやっている人も大勢いるから、言い訳でしかない
事は自分でもわかっていた。

兎にも角にも、「敗北者」だろうが「脱北者」だろうが、
生き残らねば・・・・マンセ~~ッ!!!

しかし、教室を開くと言っても、工房を開放すれば良いというわけでは決してない。

うちは昔、土鍋の工場だったのは前にも書いたけど、スレートの大きな工房は
夏は赤道直下くらい暑く、冬は北極圏くらい寒い。

電灯をつけてもあまりの広さに光が届かないブラックホールのような状態。
(ウソのようで本当の話)

こういう場所に生徒さんに「来てください」と言っても無理。

そこで金融公庫からお金を借りて、大きなスレートの工房内に教室を立てた。

金が無いのに借金を背負うという・・・
一歩間違うと絵に描いたような転落人生。

陶芸教室は思った以上に色々な道具が必要だった。
手回しロクロ、電動ロクロも一つというわけにもいかない。

手回しロクロも新しいのを購入したが、半分は友人の中古を購入。
電動ロクロも現在使用してない他人のを拝借。

机・椅子・棚・色々な陶芸道具・・・それらを全て整えた。

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しかし・・・トイレは昭和40年頃に備え付けられていた
「どっぽん便所」(汲み取り式トイレ)。しかも屋外。

欲しくない「おつり」が来るという、おぞましいトイレ。
・・・っていうか、イマドキそんなトイレの存在自体が
アンビリーバボー!

水洗便所にしたくても教室設立だけで精一杯でトイレまでは
金は回らない。

男性はそれでよかったがさすがに女性にはシンドイ。

女性がトイレを使う時は工房の隣にある自宅まであがってもらって
使ってもらっていた。

使用する方も、使ってもらうこちら側もかなり気を使う。

新しいトイレ設立基金として・・・

おしっこ100円、うんこ200円をマジで徴収しようかと思った!(お下品ですね)

木・金・土曜日を開講日とし、他の曜日で自分の作品作りを
続行するという形態になり・・・

光風窯陶芸倶楽部は晴れてスタートしたのでありました。

時に西暦2001年、宇宙の旅。


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自分史(五里霧中編)

 
独立した状態になり、いわば作家1本で食べていく事を
スタートした私。

独立した初年度でいきなり・・・

大阪・高槻 「松坂屋」
奈良 「そごう」
広島 「アルパーク天満屋」
名古屋 「三越・星が丘」
大阪・梅田 「大丸」
愛媛 「いよてつそごう」
京都 「大丸」

他にも企画展、グループ展、それに公募展・・・っと
殺人的なスケジュールでやってました。

京都での個展時には、今は亡き、人間国宝の清水卯一さんの古希記念の
レセプションに呼ばれてもないのに勝手に潜入!
すみません。貧乏なのでこっそりタダで飲み食いさせていただきました。
清水先生、ごめんなさい。天国から許してくださいね。

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そして3ヶ月で破綻すると思っていた私の生活ですが、なんとか食いつないでいました。

また、経済的にやばい時に限って、昔作ったオブジェや作品が個人的に
売れたりで生き残っていました。

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しかしながら・・・問題点もありました。

百貨店の個展の場合、売上金というのは当然ながらその日には
私の所には入ってきません。

だいたい2ヵ月後、3ヵ月後に入金されるんですが・・・
それまでが大変なんですね~。

いわゆる「運転資金」というのが無いのです。

ある程度の預貯金があればしのげるんだろうけど、私の場合
預貯金をする前にいきなりのリストラでしたからね~。

忘れもしないある8月。

お盆をはさんで8月の前半にひとつ個展があり、後半にひとつ個展が
ありました。

売り上げは両方ともまあまあ、だったんだけど・・・

その月の現金収入はたったの3万円!!!

売り上げてはいてもお金になるのは2,3ヶ月後。

出張費、作品の木箱代等は先銭でいるわけで・・・

しかも毎回、毎回、個展の売り上げが良いわけでもありません。

結局・・・この月は賞金が入ってきてなんとか生き延びた。
西部劇か?っつーーーーの?!

京都・大覚寺の御所にて・・・この作品の賞金でなんとか生き延びた?!

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それでも次から次へと個展をこなしていかねばならず、土曜日はもちろん
日曜日、祭日もありません。

気がつくと休みは2ヶ月に1日とかっていう感じでした。

子供の授業参観なんて行った事もありません。

それでもなんとか生き延びてこういう生活が5年ほど続きました。


個展の回数をこなせばそれなりにファンになっていただける
お客さんも増えましたし、それはそれでよかったんだけど
とにかく収入が不安定。

しかも、休み無しの状態が長く続くと、精神的、肉体的に相当
しんどい状態になっていきました。


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自分史(独立編)

 
公募展に出品を続けながら、同時にあちらこちらで個展やら
グループ展を開催していました。

しかし、それは父の仕事の手伝いの傍らに作品を
作っている状態には変わりありませんでした。

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やはり生活費は必要ですからね~。

そしてある日・・・四日市・松坂屋においてグループ展をやっていた時に
京都の業者(画商)さんが私に声をかけてくれました。

「あなたの作品は面白いのでこれから一緒に仕事をしないか?」という事でした。

全国の(・・と言ってもその業者さんの得意エリアは西日本中心だったけど)
百貨店の画廊との仲介をしてくれて、予定を組んでくれます。
まあ、「陶芸マネージャー」と考えていただければ、わかりやすいかな?

その予定にあわせて私は作品を作り個展をするという事です。

色々な百貨店の画廊で個展ができる!

これは陶芸作家にしてみれば大きな魅力です。

私は即座にOKの返事をさせてもらい、その後怒涛の個展中心の生活が
始まる事となります。

こうなってくると父の下で仕事をしている場合ではありません。(大笑)

父に一応は許可をもらって、父の仕事の手伝いを休ませてもらい
私は自分の作品作りに没頭していきます。
当然ながら休んだ日数分の給料は天引きされています。キツイ!

しかし、一日や二日休んだだけで個展用の作品ができるはずもありません。

1ヶ月の半分以上も休むようになると、父もついに・・・

「来月は給料はなし!自分で勝手にやれ!」

・・・と半ば、いきなりの解雇です。
リストラです。リーマン・ブラザーズです!

大学卒業後、家に帰って来いと言った父があっさり
私に対してリストラ宣言です。おいおいおい!
よほどご立腹だったのでしょう。

「作家で食えるワケがない」・・父の意見でした。

退職金も、失業保険もありません。
女房・子供もいます。

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無茶苦茶な話です。アンビリーバボーです。

正直な話、3ヶ月も持たないと思いました。

しかし、個展の予定はすでに決まっています。

後戻りはできません。

10年ほど父の下で仕事をし、給料をもらっての生活でしたが
急に経済的にも仕事においても、すべて自分でなんとか
しなければいけなくなりました。

父と仕事場は同じですが、まったくの別会社という事になり
(会社というよりは、個人自営業)
実質的には「独立」状態になりました。

来月からはもらう給料はゼロ。
しかし・・・個展活動はしたい。

明るい明日と真っ暗な明日が同居してました。

おら、知らね~~~!

明日に続く。

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自分史(ブレイク編)

 
父の下での仕事は継続しつつ、公募展熱は高まるばかり。

その間にカミさんの弟が結婚。ハワイで挙式。
一家でハワイへ。

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いや~・・・楽しかったな~。義弟の結婚式なのにやたらに楽しい。
青い海、青い空・・こんな所に住めたなら・・・・

そして・・・

日展に初出品、初入選。朝日陶芸展、2度目の受賞(秀作賞)
時に西暦1995年

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1996年、1997年も日展連続入選。

そして1997年、陶芸ビエンナーレにてグランプリを受賞。

超ブレイクしてます!

グランプリというのは狙ってとれるものではありません。
運と思い込みが必要です。

「今回、グランプリをとるっ!」・・・と陶芸仲間に宣言してました。

今から思えば、よくまあ、そんな事を・・って感じです。

勢いがある時って人生には必ずあって、まさにその時だった
ような気がします!・・・っておいおい、今からもがんばらねば!

四日市では今まで朝日陶芸展等でグランプリを受賞した方が2名ほど
おられましたが、みなさん祝賀会を開いていらっしゃいました。

・・・という事で知人の方が発起人になられ私もにぎにぎしく祝賀会を
やる事になりました。

場所は四日市都ホテル伊勢の間。

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市長や市議会議員、日展審査員、陶芸の偉い方々、他本当に色々な分野の方が
出席し開催されました。

写真は市長と握手をしている場面です。

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四日市に戻ってきた時は誰一人として知り合い、友人がいなかったけど
いつの間にか色々な人と知り合いになっていたんだな~。

祝賀会のおかげで賞金100万円は飛んでいった(泣)
グランプリ受賞はゴルフのホールインワンと同じだと悟った(爆)

グランプリ受賞とともに新聞にデカデカと掲載され、それを機会に
色々な雑誌社やら怪しい美術勧誘やらが来るようになった。

とにかく、何が何だかわからないままに突っ走っていました。

大きな公募展で入賞や入選をする事によってきっと良い事がある!
そう頑な(かたくな)に信じていた頃でした。

きっと誰かが認めてくれる。きっと誰かが声をかけてくれる。

はっきり言って公募展の信者でした。

この後もしばらく公募展熱は続き、色々な展覧会に出品し続けたのでありました。

しかし・・・

順風満帆に来ていましたが、この後、怒涛の・・・
しかもアンビリーバボーな陶芸家生活が私を待って
いたのでありました。

明日へ続く・・・ってなんだか連載小説のようになってきたな~!あははは

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自分史(結婚編)

 
病気も治り、また父の下で仕事を再開。

当時、私の月給は6万円。

両親と住んでいたので家賃も食費もいらなかった。
その代わり6万円。

四日市の万古焼の後継ぎは、どこもこういう感じの給与体系だったみたい。
結婚するまでは「こづかい制」。なんだか複雑。

父の下で毎日、問屋さん向けの商品を作りながら、
ようやく焼物の事が少しわかってきた。

今から思えば、この同じモノを沢山作るというのは
いやいやながらも、反復練習になっていて、板作り(たたら作り)において
かなりの技術習得になっていた気がする。
(後の展覧会受賞作品もみんな板作り作品)

そこで市の美術展に出品してみた。
結果はいきなり入賞!

今から思えばまったく大した賞じゃないんだけど、とにかく嬉しかった。

「俺って才能あるんじゃないの?」
それが勘違いの始まりだった。

地元の作家で作られている「四日市万古陶芸協会」にも入会させていただいた。

その縁もあり、グループ展や陶芸企画展にもお誘いをいただき
調子に乗って参加させていただいた。

まったく知り合いのいなかった四日市にも、陶芸関係で一人、また一人と
知人が増えていった。

そして26歳の時、大学の時に知り合った今のカミさんと結婚する事に。
(今も昔も今のカミさんだけど・・未来は???)

軽井沢高原教会にて、数人の友人と身内だけでひっそりと結婚式。
時に西暦1989年。

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新婚旅行は香港。

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そして、すぐに子宝に恵まれ長男誕生。1990年

自分で見ても・・・若い!!!!!!!!!!!

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仕事は相も変わらず父の下で働いていた。
(結婚後はさすがに6万円ではなく普通に給与をもらう事になります。)

陶芸展出品に意欲がわいてきた時代。

暇を見つけて、そしてたまに仕事をさぼりつつ作品(オブジェ)を作る。

長男誕生前後において・・・

朝日陶芸展にていきなりの入賞。新人陶芸奨励賞(シドニー展選抜出品)
長三賞陶芸展 入選
万古焼総合コンペ 入賞
三重県展 優秀賞
四日市市美術展は永久無鑑査に。

出す公募展は全てにおいて入賞、入選。

そして長女誕生。時に西暦1992年の事でありました。

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明日に続く。


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自分史(闘病編)

 
大学4年生になって、当然「就職」という問題が出てくるけど
父から私が長男であり家業を継ぐ運命にあるのだと諭され、
就職活動はせず、大学卒業後は実家に帰ってきました。

まあ、親に帰って来いと言われているし、就職活動も面倒くさいや!
・・・・という事ですんなり帰ってきてしまったわけです。

本当に本当にいい加減な私の人生。

うちの家業は本来は「土鍋製造業」。
数人の職人さんをかかえ朝から晩まで土鍋の生産をする製陶業でした。

それが私が大学3年生の頃に鍋不況で父は工場を廃業する事としました。
つまり景気が悪く倒産する前に自主廃業という形をとったのでありました。

土鍋廃業後、父は一人で陶器の手作り花器の仕事を始めました。

一人では大変だという事で私に帰ってきて手伝って欲しいという事
なのでありました。

しかし、私が大学で勉強したのは英語。

元家業が土鍋製造業だったにも関わらず、私は陶芸や陶器の事は
まったく何も知りません。

土も1種類だと思っていたし、焼き方に酸化や還元があるなんて
全然知らなかった。

土が収縮する事も、釉薬の事も、窯の事も、焼成温度の事もまったく何も知らない。

とりあえず父の下で焼物の「いろは」を勉強していったワケ。

当時は問屋からの注文に応じて、カタログ作品をただ黙々と
注文数だけ作る。

板作り(たたら作り)でほとんどの作品を作った。
釉薬はコンプレッサー掛け。

たまに傘立てなんかも作っていた。

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朝8時から夕方5時まで、父と二人で黙々と仕事をする。

今まで高校・大学と寮生活をしてきた私にとってみれば
毎日がさみしいの連続。

7年間も四日市を留守にしていたので、完全に四日市では浦島太郎状態で
友人も小中学校時の知り合いだけで・・・っと言ってもみんな仕事で忙しく
実際は誰も友人も知り合いもいない状態。

孤独感。

そうこうしている間に体に変調をきたすようになってしまった。

だるい。

とにかくだるい。咳もでる。微熱が続く。力が入らない。
体重がどんどん減っていく。

思いっきり咳き込むと血が出る。
まるでドラマみたいだ!

はじめは風邪かな?と思っていたんだけど、あまりにしんどいので
医者に行ったところ・・・検査の結果は「肺結核」

結核と診断された当日から緊急入院。

入院と言っても結核の場合は法定伝染病なので、はっきり言って
「隔離措置」を取られたわけです。

入院したけど、結核の場合は手術をするワケではない。
毎日、ただひたすら寝るだけ。

肺結核というと一昔前までは不治の病で多くの歴史上の人物は
肺結核で死んでいる。

世が世なら、私は23歳で死んでいる。沖田総司とまったく同じじゃ。

しかし、私が病んだ時には特効薬「ストレプトマイシン」があり
もはや結核は不治の病ではなくなっていた。

めちゃラッキー~。

・・・とは言っても毎日お尻にストレプトマイシンを打ち、ヒドラジドという薬を飲み、
だんだんと回復してきた。

入院生活も3ヶ月を超えると入院も慣れたもので、毎日の検温も適当に
看護婦さんに答えるようになる。

「熊本さ~ん、今日の体温は~?」

「36度5分!」

「ちゃんと計りましたか~?熊本さんの体温グラフ一直線なんだけど・・・」

体温をグラフにしているなんて夢にも思わなかった。

グラフを見せてもらったけど、ある日を境に私の体温は毎日見事に
36度5分の直線状態。あははは、これはやばいね~。

結局、入院日数は5ヶ月にも及んだ。

体重も増え、それなり?に元気になりめでたく退院する事ができました。

健康は大事だと言う事を身にしみて実感したけど・・・

人間は弱いもので喉もと過ぎれば暑さ忘れる。
今ではタバコも吸うし酒も飲む。最悪やな~。

そして、大学を卒業して、退院するまでの間の写真はほとんど無い。

そりゃ~そうでしょう。写真を撮る理由がない。
ベッドの上で寝ているのに記念撮影もないしね~。

だから掲載したくても無いものは無い。
その代わり今日は文章が長い。お疲れ様です。

今日は写真は1枚だけなんだけど、明日からはまた写真が増えます。


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自分史(大学編)

 
高校3年生の後期・・・結局、私は学校からの推薦という形で
麗澤高校の上の大学である麗澤大学に行く事を早々と
決め、大学受験勉強をしている友人を高みの見物してました。

本当は東京の某大学に行きたかったのだけど、自分の頭のワルさと
途中から受験勉強がしんどくなってきて、先生の「推薦してやるぞ」という
甘い言葉にひかれ・・・・結局、推薦入学という形で大学に行く事となった。
英語キライじゃないし・・・本当か?!

英語を使って、学校の先生か旅行の添乗員。もしくは英語を使った
通訳とかの仕事を将来やるつもりだったんだけどな~。

まさか将来陶芸家になるとは夢にも思っていなかった。

本当にいい加減な私の人生。

この麗澤大学というのは当時、日本で一番小さい大学とまで言われた
学校で・・・

それもそのはず、大学のくせにこれまた「全寮制」だったからであります。
そんな大学、今だったら誰も行かね~よ!

(麗澤大学もまた現在は全寮制ではありません)

当時は学部は外国語学部のみ。

イギリス語(今の英語)、中国語、ドイツ語の3科しかない。

私はイギリス語学科に入学。

まあ、寮生活はすでに3年間の経験済みなのでさほど苦労はありませんでした。

制服から開放され、いわゆるキャンパスライフの始まりです。
大学と言えばやっぱりアイビーファッションです。

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これだから、「若さ」って怖い。

どうせ外国語(英語)を勉強するのならという事で私はESSという英語クラブに入部。
あわせてシェークスピアを専門にやる英語劇にも参加。

一番左端が私です。

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この劇のタイトルは「The Winter’s Tale」日本語では「冬物語」。
もちろんウイリアム・シェークスピアの作品です。

1年生だったので役は「道化」です。

そして2年生の時はESSでアガサ・クリスティーの「The Mouse Trap」
日本語では「ねずみとり」を公演。

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3年生はオリジナル劇。

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よくある大学のサークルのバカ騒ぎ風景!

さて・・・クイズです。
どこかに数年後に私のカミさんになる人が一緒に写ってます。
お~怖い!(笑)

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英語の傍ら、音楽活動も積極的にやってました。
担当はドラム。

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結局、大学でもこれまた全然勉強しなかった。

第2外国語のスペイン語の単位を落としそうになり、あやうく留年するところだった。

しかし、結果、英語サークルや英語劇に参加したおかげでそこそこ英会話ができる
ようにはなったんだけどね。(今ではほとんど忘れてしまったが)

楽しい4年間ではあったけど、今から思えばもう少しマジメに勉強して
おけばよかった。・・・・って誰しも思うんだよね~これが。

さて・・・大学をなんとか卒業するんだけど、卒業後、だんだんと陶芸家に
なって行く道のりが明らかに??!

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自分史(高校編)

 
中学を卒業し私が入学した高校はなんと三重県からは
遠く離れた千葉県柏市にある麗澤(れいたく)高校という学校です。

この麗澤高校というのは全寮制の学校で(現在は違うが)
すべての生徒は寮に入ります。

どうして、遠く離れた全寮制の学校に行かねばならなかったのか?

実はこの麗澤高校という学校はモラロジーと言う道徳科学を
主に教える学校です。
(しかし、普段はいたって普通高校で、同級生から現役で2人も東大に合格してます)

当時私の祖父が一生懸命にこのモラロジーをやってまして・・・・

つまりは祖父が「熊本家の人間はこの学校に行きなさい!」という事で
私もワケがわからないうちに試験を受け、たまたま合格したので
入学した・・・という事なんです。

私の人生もかなりいい加減です。

ちなみにコメントをいただく「しんちゃん」さんは同じ高校の大先輩にあたる方なので
私のレスでは「しんちゃん先輩」という風になるワケね。
(つまり私よりかなりのおじさん!うふふふふ)
「よっこ」さんも麗澤の同級生。

いつも「モラロジーって宗教ですか?」と聞かれるのですが、この麗澤高校というのは
ま~~ったく宗教は関係ありません。

寮生活は1年生ははっきり言って地獄です。
2年生からようやく普通になり、3年生は天国です。
先輩・後輩の上下関係はすさまじいものがあります。

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色々な事がありましたが、なんだかんだ言いながら寮生活は面白かったです。

学園は桜並木がきれいで、今でも桜の名所になってます。

当時の制服は学生服でしたが、今ではイマドキの制服になってます。
確か・・ブレザーになっていると思う。

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体育祭では応援団に所属し
やたら松岡修造みたいに熱く青春してました。
若いって事は・・・・ある意味すばらしいが、ある意味かっこ悪い。

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怒涛の3年間がアッという間に過ぎていきました。

この3年間の事は本当~に書ききれないほどの事がたくさんありました。

一番多感な時期に寮生活というのは、私にとってかなりインパクトが
あり、今でもたまに夢に出てきます。

卒業直前・・・野郎どもと一緒に。

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明日は大学編です。

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プロフィール

熊本栄司

Author:熊本栄司
陶芸家・熊本栄司

三重県四日市市在住。
陶芸ビエンナーレグランプリ。
朝日陶芸展 秀作賞・新人奨励賞。
日展など多数の公募展に入選。

岐阜県瑞穂市の市章をデザイン




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